ハイブリッドコンサルタント

2013年12月17日火曜日

仕事に「自己実現」を求めるな!

((11月27のシェアーズカフェ・オンラインから転記しました)

「仕事を通しての自己実現」というフレーズ、一部に批判はあるものの、すっかり定着してしまったように思います。就活生と話をすると、自分を分析し、自分の軸・やりたいことを発見し、それをやらせてもらえる会社に就職できれば自己実現ができる、と考えている人が多いのに驚きます。たまたま私の周囲にそんな人が多かっただけならいいのですが、ネットなどで就活セミナーの情報を見る限り、そうではないように思えます。 

本当に「仕事を通しての自己実現」を目指さなくてはいけないのでしょうか。仕事の目的は「自己実現」でいいのでしょうか。今回はそのことを考えてみたいと思います。 


そもそも「自己実現」ってなんだろう? 

「自己実現」とは元々、心理学用語です。欲求5段階説の提唱者であるアブラハム・マズローによって理論化されました。欲求の5段階とは、低次から「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」5つです。 




この理論では、人間は人生に究極の目標を定め、その実現のために努力する存在であると想定します。自分の中にある可能性を最大限に開発し実現して生きることが最高次の欲求、つまり「自己実現」だと理論付けしました。 私はこの考え方自体に違和感はありません。人生において「自己実現」を目指すことは悪いことではありません。しかしそれは、仕事を通して求めるべきものなのでしょうか。あるいは、「消費を通しての自己実現」「趣味を通しての自己実現」を目指してはいけないのでしょうか。 


■仕事は誰に向かってやることなのか 

本来から言えば、仕事をする人に「生きがい」や「働きがい」を与えるために仕事があるわけではありません。社会が必要とするから、その仕事の成果を必要とする人がいるから、仕事があるわけです。 

つまり、他人が求める目標や目的に沿って価値を提供する。そしてその対価をいただく。これが仕事を考えるうえではずせない原則です。 

ところが「自己実現」を優先してしまうと、意識が自分に向いてしまいがちになります。自分の「これがしたい」が仕事を進めるうえでの指針になってしまいます。これでは仕事における優先順位をはき違えている、といわれても仕方がありません。 

元マイクロソフト営業部長の田島弓子さんが、近著『「頑張ってるのに報われない」と思ったら読む本』の中でこう語っていました。 



仕事をするうえで目指すべきは「自己実現」ではなく「他己実現」です。(p32) 

仕事で成果をあげたいのなら、一旦「自己実現」という言葉は忘れましょう。「他己実現」のために全力を尽くすのが仕事というものです。 

「仕事で自己実現」など考えず、仕事を生活の糧と考え、「生理的欲求」「安全の欲求」を満たすためにするのだと割り切ることも決して間違っているわけではありません。人類は長い歴史の中のほとんどの期間、「安全の欲求」を満たすために仕事をしてきたのだと言っても過言ではありません。

さらに他人から期待されることに応え、社内に居場所を作ることで「所属と愛の欲求」を満たし、成果を認めてもらうことで「承認の欲求」を満たすことができれば、仕事の報酬としては十分だと考えることもできるのです。自己実現は、仕事以外のことを通して追求することも可能なわけですから。


■なぜ仕事を通じての自己実現を目指してしまうのか 

子供のころ「将来の夢」について考えさせられたり、発表させられたりします。このとき、「将来なりたい職業」を発表するということが暗黙の了解になっていなかったでしょうか。「プロ野球選手」「パイロット」「弁護士」など具体的な職業名をあげることが推奨されます。私が高校時代に思い描いた「山中に庵を結び読書三昧の生活をする」などということは、当然ながら排除されてしまいます。 

就活の時期が来ると、各種セミナーで「自分のやりがいを感じられる仕事」「仕事でなにを成したいのか」ということを考えさせられます。さらに企業側も面接で「入社したらなにをしたいですか?」という質問を用意しています。こうした過程を経て、多くの人は「仕事に生きがいを見出すのだ」「仕事を通しての自己実現」をしなくてはいけないことだと刷り込まれてしまうのではないかと思います。 

しかし、いったん立ち止まって考えてほしい。どんな人も、多かれ少なかれ、やりたいと思っていることが変わっていく、ということを。子供のころの夢を就活の時点で変わらず持ち続ける人は少数派でしょう。そうだとするならが、20代前半で描いた夢もまた、これから変わる可能性が高い、と考えておく方が自然です。 

よく自己啓発書などに「仕事で成功を収めている人で、嫌いなことを仕事にしている人はほとんどいません。」などと書かれていますが、その仕事を最初から目指していたかどうかは人によります。おそらくは、そうではないでしょう。目の前の仕事をやっていく中でやりがいを見出したり、あるいは、以前は思いもつかなかったこと目指すようになったりして、その仕事をしています。 

ですから、20代、就活時点や入社数年の間は、「仕事で自己実現」などと思い詰めず、目の前の仕事に全力を尽くすことを考えたほうがいい。長い目で見ればそのほうが「仕事での自己実現」への近道になり得ると思います。 


■それでも仕事を通して「自己実現」を目指すなら

自己実現とは「自分の中にある可能性を最大限に開発し実現していく」こと、仕事の本質が「他己実現」、だと考えれば、仕事を通して自己実現していく道はこれしかありません。 

「『他己実現』のために、自分の中にある可能性を最大限に開発し実現していく」

 「自己実現」を「私は企画の仕事がしたい」とか「デザインの仕事しかない」などと具体的な業務として考えるのではなく、まずは、上司やお客様といった他人を喜ばせたり楽しませたりするために自分を活かす、と考えてみましょう。 そして最終的には、「企業理念を実現するために自分を活かす」ことを目指しましょう。

企業という組織が「自己実現」すべき理想・目的を示したものが「経営理念」だといえます。 この理念を達成するために自分は何が貢献でいるのか、自分の得意なことをどう活かすことができるのかを考える。会社の大きな目標・目的と個人の目指すものを重ね合わせ、その理念を実現していくプロセスの中で自己実現を考えるようにするのです。デザインをしないと私じゃない、とか、企画の仕事じゃないと私は活きない、などと思い詰めないほしい。それでは世界を狭くするだけだし、自己実現は逆に遠のきます。 

もちろん、留保すべき条件はあります。それはその企業がお題目で企業理念を掲げているのではないこと。本気で、自社の理念に基づいて企業活動を行っているというのが条件です。 企業理念をしっかり掲げ、それを組織に浸透させる努力を怠らず、その理念に基づき社会的な課題の解決を目指しているような企業であれば、その中で努力していくことで自己実現への道は見つかるはずです。

2013年12月3日火曜日

「反対するなら対案を出せ」は正しい意思決定を生むのか?

(この記事は、シェアーズカフェオンラインから転記しました)


「反対するなら対案を出せ」
ある提案がなされ、それに反対する人がいる場合によく耳にするフレーズです。国会でもそうした場面を見かけます。企業の会議でも同じようなことが起きていることも多いのではないでしょうか。

このフレーズ、常に非建設な意見を言って意思決定にブレーキをかけるような人がいる場合には、そうした人をおとなしくさせるという一定の効果はあるでしょう。しかし、問題はないのでしょうか。そもそも「対案を出せ」は意思決定の場で有効なのでしょうか。






■マイナスの効果は考慮していない?

なんらかの問題がありそれを解決する。多くの提案はその目的のために提出されます。当然。プラスの効果を期待しているわけです。ですから、反対者に対案を求めるということは、より大きなプラスの効果がある案を出せ、と言っていることになります。

もちろん、反対者がより効果的な案があると思い原案に反対をしているなら対案を出すべきです。しかし、本当にその原案の方向はプラスの効果を生むという保証はあるのでしょうか。原案がマイナスの効果を生むと考えて反対した場合、求められるのは対案ではありません。まずはこの案をストップさせ、根本から練り直しすることが目的なわけですから、対案など出しようがありません。

この場合に求められるのは、反対の根拠を皆が納得いくように説明することです。対案を出すことではありません。それでもなお対案を求めるとするならば、それは「論点ずらし」と指摘されても仕方がありません。

■情報の非対称性

次に「情報の非対称性」の問題があります。提案者は時間をかけて情報を集めた上で原案を提示します。それに対しその提案を受ける側は、直前にその案を聞かされることがよくあります。起案を指示した上職者には事前の説明をしているでしょうが、その他の参加者は会議の場で初めて内容を知る、という場合も多いのではないかと思います。精査する余裕は与えられていない、ということになります。

こうした場合、提案者が情報を独占している状態にあります。提案発表に必要ではない情報は参加者には知らされません。また、本人が意図する意図しないは別にして、都合の悪い情報は隠蔽される可能性もあります。

本来、対案を出すためには、情報の共有と事前の準備の時間が必要です。その条件が揃わない段階で対案を求めるのは、真意がどうあれ、議論を打ち切って結論を押し通したいのだ、と思われてしまうでしょう。

■「直感」は案外正しい

反対するなら論理的に根拠を述べ、皆を納得させる、というのが基本です。しかし、それにこだわると別な落とし穴があるようにも思えます。

「なんとなくおかしい」「違和感がある」ということで反対した人がいる、つまり「直感」をもとにした反対者がいる場合、どう扱うべきなのでしょうか。根拠が明確ではないから、ということで切り捨ててもいいのでしょうか。

「直感」は経験知であり身体知です。これを言葉にするのは難しい。だから往々にして無視してしまいます。しかし、良質な経験を積み上げてきた人の直感は精度が高く、熟考した上で下した結論とほぼ変わらない場合が多いものです。

直感でそうした判断を下せるのがなぜなのか。理由は説明することは難しいですが、これを個人の問題に引きつけて考えてみましょう。

違和感を覚えながらも理由がはっきりしないのでそのまま進めてあとで後悔をした、と言う経験をされた方は多いのではないでしょうか。直感に従っておけばよかったな、と思ったことがある人はたくさんいるはずです。ここから推察すると、経験を積み熟知した内容については、直感はかなり正しい判断をすると考えられます。

もちろん論理は大切です。できれば直感を論理的に説明できるようになるに越したことはありません。しかしそれができないからといって、可視化できるものや論理的に通じるものしか認めない、となってしまうと大事な判断を誤る可能性が高くなると思います。

■「いまさら止められない」を止める

「対案を出せ」は適切な場面で使われれば有効に作用することもあります。しかし時に提案者が自分の意見を押し通すために使うこともあるのです。対案要求を異論封殺の手段として使ってしまう場合があるということです。逆に、対案が思いつかないから反対しない、というもの思考停止です。これでは有意義な結論を得ることができなくなります。

おそらく提案者としては「ここまで案を考えてきたのだから、いまさら止められない」という想いがあるのだと推測されます。また、その人に原案作成を指示した人(多くは上職者)からすると、何らか問題を認識して解決策としての案を求めたわけですから「なにもしない」ということは決断しにくいのでしょう。

しかし、決断することはなにか具体的なアクションを起こすことだと思われている節がありますが、「やらない決断」というのもあるわけです。「いまさら止められない」と言ってアクションを起こし、それが間違った方向に進んでしまえば、場合によっては取返しのつかない事態を引き起こしかねません。

「『いまさら止められない』を止める」という決断が必要な場面もあるはずです。リーダーやファシリテーターは、意思決定の場でこうしたことに十分に配慮しなくてはなりません。「対案を出せ」というフレーズは慎重に取り扱わなくてはならないのです。



直感力に関する記事は以下も参考にしてください。
【読書】正しい判断は、最初の3秒で決まる / 慎 泰俊